母
昨年両親を亡くした。
4月から6月の僅か2ヶ月の間に、まずは母が逝き、後を追うように父が旅立った。
短期間に相次いで両親を亡くした俺に周囲からは同情の声が上がったが、母はその前年からパーキンソン病で入院しており回復は見込めない状態だったし、数年前に糖尿病が悪化して足の両つま先を切断していた父に関しては、こういう症状に見舞われた人の一般的な余命を医者から告げられていたため、青天の霹靂のように思いもかけないことが起こった訳でもない。
よく遺族が口にする言葉だが、俺もまたそう遠くない未来に訪れる両親の死を確かに「覚悟して」おり、そのためか深い悲しみに包まれたり何かに想いを巡らせるような事もなかった。
ただ一点、母の境遇を除いては。
母はどこまでも昭和の女を体現したような女性だった。
夫に従順で勤勉で子供に対する厳しさと優しさの基準が明確な人だった。
かたや父はと言えば生来女と酒にだらしがなく、携帯電話もなかった時代のこと、留守中浮気相手から自宅に電話がかかってくることがしばしばあった。その都度対応した母は決して語気を強めるでもなく、かといって相手の無礼を看過する訳でもない毅然とした態度で接していた事を覚えている。
また、酒に酔った父に言いがかりのような理由で殴られていたこともあった。
そんなときの母は逆らうこともなく、まるで従順な飼い犬が主人からの叱責を悲しそうな目で耐えているように見えた。
腹に据えかねた俺が父を制止し罵倒すると、じっと耐えていた母がそのときだけは瞳に一杯の涙を溜め俺を諌めた。
中学三年の時の担任が卒業時に初めて打ち明けた話がある。
二者面談の際、俺の素行を問題視した担任はこのままではどうしようもなくなりますよと母に告げたらしい。母は「でもあの子は本当は優しいんです」の一点張りだったそうだ。
担任は「本当にいいお母さんを持ったな。お前、親孝行せんといかんぞ」と締めくくり俺を送り出した。
卒業式の晴々しい気持ちは吹き飛び、代わって自身の愚かな言動に対する悔悟だけが押し寄せたあの日。
今にして思えば母の世界観はどこまでも家族が中心であり、その観念も封建的なものだった。彼女は盲目的に家族を庇い、愛し、そして父に対してどこまでも従順だった。
いつも家族のために尽くしてくれた母
自分の楽しみなど一つも持たなかった母
父のような男に従い生涯を尽くした母
一生働きづくめで苦労ばかりしてきた母
その境遇に想いを馳せる。
「本当に楽しかった?」と
「俺が息子で苦労しなかった?」と
「父に殴られたとき辛かっただろ?」と
母の生前に解消できた筈のこれらの疑問は俺の怠惰の証。
でも可能ならばただ一つだけ訊いてみたい。
「あなたは本当に幸せだったのですか?」
雪深い新潟の農家で育った母は関西に引っ越した際に初めて牛肉を食べたようだ。
「初めて食べたんはすき焼きやったなぁ。こんなに美味しいものがこの世にあるのかと驚いたわ」
そう言いながら笑っていたことを思い出す。
母ちゃん、今までホンマありがとうやで。俺も色々あるけどな、間違ったことだけはしとらんから安心して休んでな。母ちゃんが丈夫に産んでくれたから病気一つせんし、子供も元気に成長してる。すぐに怒られるけど嫁ともなんとかやっていけとるよ。
だから・・・
来世があるならまたすき焼きでも食べに行こうや。